
「生きながら捕はれて、京鎌倉に恥を曝すも、ひとへにあの右衛門督故なり」
-平宗盛(たいらのむねもり)-
清盛の三男、母は時子。久安三年生まれ。淡路、遠江、美作の各守。左兵衛佐、左馬守、右近衛中将、参議等を経て、承安元年には右兵衛大将、同二年には正二位、権大納言兼春宮大夫になります。元暦二年、三十九歳にて没。
異母兄重盛の死後家督を継ぎ、清盛の亡き後は一門の棟梁となります。しかし、重盛に比べてその人柄は著しく劣ると言われた人でありました。一説には母の時子さえも宗盛を嫌っていたとも言われ、また一説によれば、宗盛は清盛の実子ではなく傘屋の息子であったとも言われています。しかし、武将・政治家として超一流の腕を振るった父・清盛と常に比較されたのでは、宗盛がかすんでしまうのは仕方のないことだったかもしれません。清盛の子息達は、生まれながらにして「平家」であったからです。
宗盛は、一族郎党への恩愛は非常に厚い人でありました。ただ、情にもろいところが裏目裏目に出てしまったのはなんとも皮肉なことです。
門に都落ちを指示したのも、宗盛なりに安徳帝と建礼門院の身を案じ、心を砕いてのことでした。また、その際に平家の捕虜になっていた畠山庄司重能らを故郷へ帰したのも、彼らの心中を思いやってのことでした。壇ノ浦の合戦前に阿波重能を斬らなかったことも。壇ノ浦で愛息とともに生け捕りになったことも。
…けれど悲しいことに、なさけや愛情などは、源平の命運を分けた合戦にはほとんど何の役にも立たなかったのです。
平家の運命もいよいよ最後と見えたころ…。宗盛親子は海に入る様子もなく、途方にくれて船端に立っていました。その様子を見た侍はあまりに情けなくて、傍を通るふりをして宗盛を海へ突き入れました。それを見た清宗は、後を追って海へ飛び込みます。しかし、二人は水練の達人であったため、お互い目をかわしつつ辺りを泳いでいました。
「清宗が沈めば私も沈もう。助かれば私も助かろう…」
ほどなく清宗は源氏の兵に引き上げられます。宗盛も清宗とともに捕虜になったのでした。
そして4月26日。生け捕りになった平家の人々は都へ入り、都大路を引き回されました。このとき宗盛の牛車をひいたのは、かつて宗盛がかわいがっていた牛飼いです。昔の恩が忘れられず、最後の牛車を引きたいと申し出てきたのでした。「以前は何とかして一門の目にとまりたいと思っていたのに、今日このような有様になってしまうとは誰が考えたであろう…」身分の高い者も、低い者もみな袖を濡らしました。
やがて義経の宿所に着くと食事が出されましたが、胸がいっぱいで箸さえ取ることができません。清宗と目と目をあわせてとめどなく涙を流すばかりでした。夜になっても装束もくつろげず、自分は片袖を敷いてごろ寝をしましたが、息子の清宗にはお袖を着せ掛けてやる様子を見て、恩愛の道ほど悲しいものはない、と守護の武士も涙を流します。
「都をばけふをかぎりのせきみずにまたあふさかのかげやうつさむ」
今日を最後と都を出て逢坂の席へ来たが、この清水を再び見て姿を映すことがあろうか…。
宗盛と清宗は義経に引き連れられ鎌倉へと向かい、頼朝と対面します。しかし助命が叶うはずもなく、近江の篠原で斬られることになりました。義経の請じた聖と向かい合っても、気がかりなのは清宗のこと。
「さても清宗はどこにいるのだろうか。たとえ頭は刎ねられるとしても、躯は一つむしろに臥したいものだと思っているのに、生きながら別れるとは悲しいことだ。この十七年というもの、片時も離れたことがないのです。生きながら捕らわれて、鎌倉に恥を曝したのも、ひとえにあの清宗のため…」
涙を押さえきれない宗盛の様子に、聖も涙をおさえつつ申し上げます。
「今はご子息のことはお考えなさいますな。ご一緒ではますます悲しく思われるだけです。今はただただ、極楽往生のことのみをお考えになりますよう…」
宗盛もこれをしかるべき善智識と思ったため、たちまちに妄念をひるがえしました。
西に向かって手を合わせ、高らかに念仏を唱えるところ、左の方より宗盛の後ろに家人が立ち回り、まさに斬ろうという時…。宗盛はふと念仏を止めてこう言いました。
「清宗も斬られたか」
宗盛、清宗の躯は同じ穴に埋められました。これは、罪深いまでに宗盛が息子のことを思っていたからです。
なにかにつけて棟梁としての劣った面ばかりを強調されがちな宗盛ですが、人間的に見れば心の優しい人物だったのでしょう。