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「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」
-平重盛(たいらのしげもり)-


清盛の嫡男として生を受けます。母は高階基章の娘(二位殿ではありません)。
 

保元の乱では父清盛とともに後白河天皇方につき、勝利をおさめています。

また、平治の乱においては、悪源太義平と、内裏における左近の桜・右近の橘をめぐる一騎打となり、後世に残るほどの激しい戦いとなりました。この見事な若武者ぶりは平家の面々に非常に頼もしがられておりました。清盛の信頼もひとかたならぬものがあり、「自分の息子の中では、やはり重盛が一番思慮深い。重盛が健在である限り、わが平家は安泰じゃ。いや、重盛はえらいやつじゃ」と誉めています。

重盛は、非常に情けある人物として知られ、平家物語には父清盛の諌め役として登場しております。治承元年。重盛が左大将、内大臣になった年のこと、鹿ケ谷の陰謀が発覚しました。いきり立って元凶後白河を幽閉しようとする清盛を、心を尽くして説得しています。「かなしいかな、君の御為に忠義を尽くそうとすれば、須弥山よりもなお高い父上のご恩を忘れたことになり、不孝の罪を逃れようとすれば、君の御為に不忠の逆臣となってしまいます。重盛は進退きわまりました。どうか、この首をはねてから法皇をお改めください」この言葉には、さすがに清盛も言葉を返せなかったのでしょう。郎党たちに鎧をとくよう命じます。「重盛め…」清盛は、あとで苦笑いの一つでももらしたのではないでしょうか。理路整然としており、常に物事の正しい筋道に立って考える嫡男が歯がゆくもあり、頼もしくもある。

また、重盛は信仰心が厚く、京都東山に四十八間の御堂を建てたとか、中国の育王山に黄金三千両を寄進して皇帝を感激させたという話も伝えられています。

やがて重盛は病を得ます。日ごろは反平家で凝り固まっているような者でさえ、見舞いに駆けつけたそうです。清盛は、心配して宋の名医に見てもらうように勧めますが、重盛はこれを断り、ひとり冥府へ赴いていかれました。

平家一門の中で、重盛ほど政敵からも信用された人物はありませんでした。いま、私たちが目にすることのできる重盛の肖像画からは、重盛の温厚さ、思慮深さが伝わってくるような気がします。

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