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「つひに遁るまじう候ふ上、早々出させおはしませ。…いたうな歎かせ給ひ候ひそ」
-六代御前-



平家の嫡孫、維盛の長男で母は成親の娘。源平合戦の最中は、父維盛の意志により、従者の斎藤五・斎藤六らに守られて都にとどめおかれます。

しかし、壇ノ浦で平家が滅んだ後、北条四郎時政を通じて次のような宣旨が出されます。
「平家の子孫は男ならどんな者でも漏らさず探し出せ。見つけ出した者には恩賞は思いのままであるぞ!」
都の人々はこれを聞き、われも褒美にありつかんと都中を探し回りました。
なかには、平家とかかわりの無い下臈の子であっても、色白で見目のよいものがあれば「あれは何の中将の若君です、かの少将の公達です」などとでたらめを言って訴える者もいました。そのため、彼らの恩賞のために、幼い子供は水に入れられ、また土に埋められ、年かさの子であれば簀巻きにされ、無残にも刺し殺されてしまったのです。


中でも、維盛の若君の六代は、年も少し長しいうえ、平家の嫡々であるためみみなが血眼になって探しました。しかし、なかなか見つけ出すことができずにあきらめかけたところ、ある女房の讒言によって住処を知られてしまいます。斎藤五、斎藤六は何とか若君を逃れさせようと、周囲をうかがいますが、すでに屋敷は武士に取り囲まれておりました。
 

「母上、ついに来るべきときがきたのです。早く行かせてください。武士たちが討ち入って探すようなことになれば、見苦しいさまを見せてしまうかもしれません。しばらくすれば北条とかいうものに暇こうてもどってまいりますから、御嘆きにならぬよう」

 

と、取り乱す母を慰め「今はいかにしても、父上のもとへ参りとうございます」と、潔く出て行きました。

六代はこのとき12歳でありましたが、余の人の14,5歳よりも大人びて、見目姿美しく、心ざまは優であったため、敵に弱さを見せまいと押さえた袖の間からも涙が零れ落ちてしまいます。


若君を案じた女房が、高雄の文覚坊に泣く泣く訴えると、文覚は時政に会い、二十日の猶予をもらって鎌倉へ向かいます。しかし、瞬く間に二十日は過ぎ・・・、六代を乗せた輿は鎌倉へと向かいます。このときの六代は、生きた心地もしなかったでしょう。駒を早める武士があれば、「わが首を切らんか」と肝を消し、物を言い交わす者があれば「すわ、今」と心が騒ぎます。
 

とうとう、駿河の国で「若君、出でさせたまえ」の声がかかるも、あまりのいとおしさに誰も刀を取ることができません。そのとき。早馬に乗った文覚が頼朝からの御教書をもって駆けつけ、からくも命を救われました。

その後、六代は16で出家して父維盛のあとを恋い、滝口入道を訪ねます。父の渡った島を見ては「ああ、わが父はどのあたりに沈まれたのであろう」と波に問い、浜の白砂をみては「これは父の御骨か」と懐かしく、夜もすがら経読み念仏し、指で砂浜に仏の絵を書きあらわす姿は哀れです。それよりは、ますます修行に励み行い澄ましていたのですが、文覚の謀反により、「維盛の子、しかもあの文覚の弟子である。頭はそっても、よもや心までは剃るまい」と、鎌倉より責め立てられ、ついに齢30にして斬首されます。こうして平家の子孫は永く絶えたと平家物語は伝えています。

 

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