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「新軍事組織、惣官・諸荘園惣下司」

清盛は治承五年、新しい役を発令した。これは官とも位とも関係のない、まったく新しい官職であった。すなわち、畿内、伊勢、伊賀、近江、丹波の諸国を束ねる総官と、その下の諸荘園惣下司のことである。


東国の頼朝勢および諸国の反平氏の輩を撃破するためには、まず足元を固める必要があったが、その足元には後白河という強敵が潜んでいた。衛府や検非違使のような王朝の手足を以ってしてはとうてい勝ち目はないと清盛は考えた。そこで、清盛の手足となって働く諸国の長と検断者を組織したのだった。惣官、諸荘園惣下司という役職を世に示すということは、とりもなおさず、畿内、伊勢、伊賀、近江、丹波の諸国はもはや帝や院のものではなく、清盛のものであるということを世に示すということと等しかった。


実は、この惣官と諸荘園惣下司は、もう少し時代を下るとあらわれる「守護」と「地頭」の原型であると言われている。清盛はこれまでの律令制による王朝政治と思い切って決別し、まったく新たな構想をもって軍事政権の樹立をはかろうとしていた。その意味するところを知った武士達は手を打って大いに喜んだという。


清盛はこのようにせっかく中央に独自の軍事政権を生み出す可能性をつかみながら、結局はその成果は後年の頼朝に奪われるかたちとなった。その年、治承五年には清盛はこの世を去ることとなってしまったのである。

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