
先帝の御面影、忘れんとすれども忘られず、忍ばんとすれども忍ばれず」
-平徳子/建礼門院(たいらのとくこ/けんれいもんいん)-
清盛、時子の娘。15歳で高倉天皇の女御として入内。やがて安徳帝の母となり、建礼門院の院号を授けられます。ここに一門の栄耀栄華は極まり、清盛も天皇の外祖父として大いに腕を振るいます。
振り返ってみれば、建礼門院はまさに一門の運命を象徴するかのような生涯をたどっています。
その姿は桃李・芙蓉にもたとえられた建礼門院。ともすれば、運命に流されたか弱い女性のようにも思われがちですが、実はそうではないのです。
初めて自分の意志を貫いたのは平家の栄華に影がさし始めたころでした。
清盛(または時忠の進言とも)は福原の都より後白河法皇に使いを立てようとしていました。
「昔のように平家とよしみを通じてくださるならば、徳子を女御として差し上げます」
…実は後白河上皇はかねてより徳子に思いを寄せていたという噂があったようです。それで、後白河上皇にとっては実子であり、また徳子の夫でもあった高倉上皇が亡くなったとたんに、暗に徳子を差し出すように使いを立てたとか。
しかし、このとき徳子は決然としてこれを拒否。
「枉げてこの儀を通されようとするならば、私は出家いたします」
ある意味では清盛と後白河の取引のような形で行われた政略結婚の道具であった徳子は、夫の死によってその役目から開放されました。そして、愛する子供の住む清盛の館へようやく戻ってきたばかりの彼女に再び後宮に上がれとは。しかも、その相手は我が子の祖父でもあり、いまや清盛の仇敵ともなった後白河です。
結局、清盛もこれ以上は建礼門院に要求することはできないと思ったのか、17歳になる安芸の姫御子を差し出すこととなりました。
清盛の死後は宗盛を総領とし、一門と行動をともにしています。
あくまでも皇族に連なる彼女と安徳帝は都にとどまることも可能だったはずです。しかし彼女もまた皇族としてではなく、平家の一族としての運命を選んだのです。
壇ノ浦でいよいよというときには、二位殿に抱かれ入水した安徳帝の後を追います。
しかし、あさましくも追ってきた源氏の兵にその長い髪を絡めて引き上げられ、恥辱を受けることになりました。
京都に送り返された徳子は大原の寂光院に入り、一門の菩提を弔いつつ余生を送ります。
おそらく、その生活は西海にさまよっている時以上に悲しみに満ちた生活だったに違いありません。
忘れようとしても、忘れられぬわが子の最期。二位殿の言葉。
こうして自分が恥をこらえて生き長らえているのも、ひとえに一門の菩提を弔うため。
数々の苦しみをなめた女院は、何度死を願われたことでしょう。しかし、彼女を生きさせたのはやはり一門、とりわけ先帝への愛だったのです。
59歳で彼女が往生を遂げたとき、一門の魂もともに救われたのだと私は信じたいと思います。