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「経の島築造」
清盛は応保三年三月下旬より、経の島の築造に着手した。しかし、この年の8月にはにわかに大雨、大風が起こったため、それまでに築いたものを無にしてしまった。そのため、同三年の三月下旬に阿波民部重能を奉行にして島の再築をおこなった。しかし、あまりの難工事にこのとき公卿達の間から人柱を立てるべきだという意見が起こった。当然のことであった。
清盛は断固反対した。
「人柱を立てるなどとはまことに罪深きことである。それならば、島を築く石の表に経を書き、海神の怒りを鎮めるが良かろう」
と言って、すべての石に一切経を書き付け、無事に工事を終えたのである。それゆえ、この島は「経の島」と呼ばれるようになり、それ以降上り下りの船の行き来の心配がなくなったということである。
今日でさえ、神戸が世界有数の貿易港を有していることを考えると、清盛のこの選択は正しかったのではないかと思われてくる。清盛の骨は、ここ経の島に納められたと言うことである。
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