
「今は兵衛佐にたすけられんずるにこそ」
-平頼盛(たいらのよりもり)-
天承元年、清盛の異母弟として生まれます。母は藤原宗兼の女、宗子(池の禅尼)。六波羅の池殿に住んでいたため池の大納言とも言われました。この頼盛の母の家は中関白道隆を祖とし、摂政関白をつとめ、かつては一世を風靡した家柄です。今は落ちぶれたとはいえども摂関家であり、忠盛も一目も二目も置いていたようです。清盛は、なんとなく頼盛の母やその実家が妙に煙たく感じていました。
平治の乱ののち、頼盛の母は、自分に実家に蹴鞠を習いに来ていた頼朝の命乞いにやってきます。
清盛は一門の中で妙に浮き上がった存在になっている頼盛一家がどうも気にかかっていたようです。表立って反対することはなくとも、何に付け消極的で、清盛が摂関家や公家と対立するようになってくると、ますます頼盛はしぶしぶ、といった感じでした。母の影響を強く受けていたのでしょう。清盛は池の禅尼の申し出を受け入れることにしました。もし、この時点で清盛が助命しなかったら…。私は何度もそのことについて思いをめぐらしたものでした。
さて、頼盛はこの母の身分ゆえに、兄弟の中でも出世が早かったようです。そのせいでしょうか、頼盛は清盛と同一歩調をとるのをいさぎよしとしなかったところもありました。最も清盛に衝撃を与えたのは、頼盛の妻の父親、俊寛が鹿ケ谷の陰謀の立役者だったことです。俊寛らの計画を頼盛が知らなかったはずはありません。この一門に近いところからの反逆により、一門の中に大きなひびが入ったのです。
さらに頼朝が挙兵するにいたって、ますます一門の中に「頼盛頼むにたらず」と、頼盛を疎外するような空気が満ちてきました。
一門の都落ちの際、頼盛は池殿に火をつけて出てきました。しかし鳥羽殿の南の門に馬をとめて「忘れたことがある」と言って、赤印を切り捨て、その三百騎で都へ取って返しました。頼朝は、いつも頼盛に好意を示して「あなたを決してなおざりには思いません。ひたすら命を助けてくださった禅尼殿のようにお慕いしているのです。八幡大菩薩も御照罰ください」と、何度も誓書を持って申した上、「けっして池殿の侍に弓引くな」と情けをかけていました。
頼盛はもはや頼朝を頼るほかありませんでした。たとえ一門とともに都落ちしたとしても、疎外された頼盛一家にいるべき場所は見当たらなかったでしょう。
「一門の平家は運がつき、もう都を落ちてしまった。これからは兵衛佐に助けられるであろう」と言って、都へ戻ったと言う噂です。
平家の滅亡後一家は頼朝の温情を受け、妻の死後の広大な八条院領を管理、平家ではこの一家だけが栄えました。しかし、頼盛の憂いは深く、思い悩んだ頼盛は出家し、名を重蓮と改めました。文治二年、五十五歳でこの世を去っています。