
清盛と厳島
現在は世界遺産に登録されている厳島神社。
清盛はその基ともなる荘厳な社殿を修造し、一門の氏神として特に厳島神社に篤く信仰を寄せていました。
厳島神社には平家納経を始め、国宝である鎧や宝剣等も多数納められており、平家の栄華を今に伝えています。
そもそも、清盛と厳島神社のこのように深い結びつきは、どのような契機によるものなのでしょうか。
清盛は29歳にして上国である安芸の守に任じられます。
その折、清盛は父忠盛に代わって高野山の大塔を造営していました。
あるとき、高野の老僧は、清盛の夢に現れて彼に告げます。
「汝、たまたま国司となる。すみやかに厳島に奉仕すべし。我こそは奥の院の阿闍梨なり。」
そういい終わると、姿を消してゆきました。
その後、清盛が安芸の国の厳島神社に参詣の折、巫女の1人が託宣して告げます。
「汝、末は従一位太政大臣に至るべし」と。
この話は源平盛衰記にも伝えられていますが、どうやら清盛の正夢であったことには間違いないようです。
なぜなら、平家納経の願文に、清盛自らが述べているからです。
「弟子(清盛)、元因縁あり。専ら欽仰を致すに、利生掲焉なり。
久しく家門の福禄を保つこと、夢に感じて誤りなし。
すみやかに子弟(重盛、経盛、頼盛ら)の栄華をあらわし、今生の願望、既に満てり。
来世の妙香、宜しく期すべし。
相伝えて云く、当社(厳島神社)は是れ観世音菩薩の化現なり。
又、往年の比、一沙門(高野山奥の院の阿闍梨)ありて弟子(清盛)に語りて曰く。
菩提心を願うの者、この社を祈請すれば、必ず発得有らん。
自らこの言を聞く。偏に以って信受す。
帰依の本位蓋しここに有り。」
このように、清盛の安芸の守就任には、霊験譚が潜んでいたのですね。
少しさかのぼれば、正盛・忠盛の代より、平家は瀬戸内に活躍の舞台を広げていました。
清盛の安芸の守就任は、一族にとって願ってもない機会だったことでしょう。
また、宋との取引を盛んに行っていた平家の富は常に海からもたらされていました。
忠盛の海賊討伐以来、よしみを通じていた安芸の水軍たちは、その航路を守るものとしても非常に心強い存在であったに違いありません。
海と深いかかわりを持つ平家が、海の神を祀る厳島神社に格別の真を捧げるのは当然であったことでしょう。
しかし、清盛の就任当時の厳島神社はかなり荒廃が進んでいました。
このままではいかぬ。
そんな思いに突き動かされたであろう清盛は、この社殿の荘厳を積極的に推し進め、後の世まで長く人々の心を捉える壮麗な社殿を完成させたのです。