top of page

袖の湊

博多港は遠く倭国の時代から、日本の玄関口として様々な文化を運んできました。


清盛は大宰大弐となったころ、この地に日本初となる人工の港、「袖の湊」を建設しました。保元三年ごろのことです。
これは埋め立てによって埠頭を築いたもので、これまで以上に大型の船舶の出入りを可能にしました。

清盛の手により港湾機能の整備が進んだ博多の町は、日宋貿易の拠点となり、港湾商業としての発展を遂げていきます。
また、私的な貿易港としての役割だけでなく、朝廷の公用港としても重視されることとなり、船団を組んだ宋船がさかんに出入りしていたといいます。

しかし、残念ながら、袖の港の正確な位置は現在分かっておりません。
おそらく、現在の呉服町あたりにその場所があったのではないかと言われています。
福岡市の文化財整備課の方のお話によれば、冷泉町から白磁山の出土が見られたのとこので、そのあたりが湊があった場所の目安になるのかもしれません。

福岡市営地下鉄「中洲川端駅」からほど近い鏡天満宮には、「渡唐口跡」がありますが、その下方には「冷泉津 袖湊」と記されています。
ここがもっとも分かりやすい目印かもしれません。

近年の発掘調査では、当時、宋銭が流通していたことも判明しており、清盛のもたらした影響力の大きさを物語っています。
そのほか、陶磁器、絹織物、香料、薬、絹、仏教経典なども次々に持ち込まれ、新しい文化の発展に貢献しています。

​お問い合わせ・ご意見
  • Facebook
  • Twitter
  • YouTube
  • Pinterest
  • Tumblr Social Icon
  • Instagram
©2019 花のかんばせ 無断転載禁止

Success! Message received.

bottom of page