
垣間見る日常の姿
平家一門全盛期のころ、一門の公達・武将たちは伝統的な装束姿をアレンジした「六波羅様」とも呼ばれる装束を好んで着用していました。
この時期は「固装束」という固地の生地による直衣や衣冠、束帯が広く普及しましたが、装束だけでなく頭にかぶる冠や烏帽子までも、漆で固めて折り曲げる角度を固定することが好まれます。
「烏帽子のためやうより初めて、衣文のかき様に至るまで、何事も六波羅様とだに言ひてしかば、一天四海の人みなこれを学ぶ」と平家物語にあるがごとく、平家一門の着こなしを誰もがお手本とし、まねていた時代。平家一門は、誰もが憧れるファッションリーダーだった、とでも言えそうですね。
そんな平家一門の日常の装束とはどのようなものであったのでしょうか。
物語を紐解いて、ちょっぴりのぞいてみましょう。
平家物語「内裏炎上」より
山門の衆徒が大勢都に押し寄せてくるという事で、高倉天皇と
徳子が法住寺へ避難されます。
その折に、重盛は直衣に矢を背負ってそのお供を。
重盛の嫡子維盛は束帯にひらやなぐいを背負って参られました。
この時、重盛は直衣姿。直衣は基本的には貴族たちの日常着で
すが、直衣で参内するには天皇からのお許しが必要です。直衣
での参内には冠を着用しますので、重盛はおそらく烏帽子では
なく冠直衣でお供したのでは。
そして、この時の維盛は「武官束帯」姿。画像の男性は束帯姿
ではりませんが、背中に「ひらやなぐい」を背負っています。
ひらやなぐいは主に天皇の行幸の際に用います。
平家物語「教訓状」より
鹿の谷事件後、謀反人をとらええていきり立つ清盛をいさめに
来た重盛。清盛が直垂・腹巻姿であるのに対して、重盛は烏帽
子直衣に大紋の指貫の側をとって、音を立てながら入っていき
ました。
直衣姿の重盛は、今回は烏帽子姿。
私邸での着用なので、普段着で、といったところでしょうか。
「指貫」は括り袴のことです。裾をひもでくくり、だぼっとし
たシルエットになります。
画像は「小直衣」ですが、重盛も身分的には小直衣の着用は可
能でしたから、雰囲気はこのような姿だったかもしれません。
平家物語「小宰相身投」より
白き袴に、練貫の二つ衣を着給へり。
通盛の妻の小宰相が、死に別れた夫の後を追って、海中へ身をげました。
その後、かなりの時間が経って引き上げられた小宰相の姿です。
白い袴に、練貫(縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物)の袿を二枚重ねた状態です。
平家物語「熊野参詣」より
この日の装束は、青色のうえのきぬ、すほうのうへの袴。
(あをうちの半ぴ、海浦(かいぶ)の文(大波・魚・貝などの海辺のさまを表す模様)、螺鈿の細太刀という記載もあります)
重盛の長男、維盛がいまだ少将であった安元の春、院の御所での
御賀の際に青海波を舞いました。冠に櫻の花を挿した花のような
姿、風に翻る舞の袖は地を照らし天も輝くばかり。そのあまりの
美しさに、維盛は光源氏の再来とも、紅梅少将とも呼ばれるよう
になります。
ちなみに、この頃の「青」とは、鶯色にライトグレーを混ぜたよ
うな色合いです。
更に詳しい記述を安元御賀記に求めると、維盛は右の袖を片脱ぎ
し、海浦の半臂、螺鈿の細太刀、紺地の水の紋の平緒、桜萌黄の
衣(衣冠装束)、山吹の下襲、やなぐいを解いて老懸を懸く、と
あります。
この色合わせの絶妙さ。宴に花やぎを添えてくれたことでしょう。
平家物語「那須与一」より
歳の齢、十八,九ばかりなる女房の、柳の五衣に、紅の袴着たるが、
皆紅の扇の、日出したるを、船のせがみに挟みたて、陸へ向かって
ぞ招きける。
屋島の合戦で、源氏の陣に向かって女房が「この扇の的を射よ」と
誘いかけるところです。
この女房は玉蟲の前、別名舞の前といいます。
玉蟲の前の装束は、5枚重ねた柳色(緑)の袿に、紅色の袴。
扇には紅に金色の日が描かれており、高倉院が厳島神社へ奉納した
ものであるといわれます。
今まさに日も暮れかけんとするところ、音もなく進み出てくる船…。
美しい光景であったと思います。
平家物語「先帝身投」より
鈍色の二衣うち被き、練袴の傍を高く取り、神璽を脇に鋏み、宝剣を腰にさし、主上を抱き参らせて、壇ノ浦で「妾は女なれども、敵の手にはかかるまじ」。
鈍色は忌色。濃い灰色の二枚重ねの袿をかぶり、動きやすくするために練袴の股立ちを取っています。
「股立ちを取る」とは、袴の両わきの切れ込みの部分をつまみあげて帯に挟んだ状態のこと。
そして、三種の神器である八尺瓊勾玉を脇に挟み、宝剣、草薙剣を腰に差した二位の尼。
覚悟の程が伝わってくるような出で立ちです。
平家物語「先帝身投」より
主上今年は御歳8歳にぞならせおはしませども、お年のほどよりはるかにねびさせ給ひて、御形いつくしう、あたりも照り輝くばかりなり。御髪黒うゆらゆらと、御背中過ぎさせ給ひけり。
(中略)山鳩色の御衣に鬢結はせ給ひて、御涙におぼれ…。
壇ノ浦、いよいよこれが最期、というときの安徳帝のご様子です。何度読むにつけ、その御姿を思うにつけ、非常においたわしく、胸がふさがるような心地がします。
建礼門院右京大夫集より 建春門院
紫のにほひの御衣、山吹の御表着、桜の御小袿、青色の御唐衣、蝶をいろいろに織りたりし、召したりし、いふかたもなくめでたく、若くもおはします。
高倉帝の母である建春門院が、建礼門院の御所を訪れるくだりです。当時三十三歳とはいえ、若々しく美しい様子です。
建礼門院右京大夫集より 中宮徳子
つぼめる色の紅梅の御衣、樺桜の御表着、柳の御小袿、赤色の御唐衣、みな桜を織りたる召したりし、にほひ合ひて、いまさらめづらしくいふかたなく見えさせ給ひしに
建春門院の訪問を受けた建礼門院。この二人の姿をこっそり覗き見た建礼門院右京大夫は「春の花秋の夜月をおなじをり見る心地する雲の上かな」と詠みました。
建礼門院右京大夫集より 維盛
二藍の色濃き直衣、指貫、若楓の衣、その頃の単衣、つねのことなれど、色ことに見えて、警護の姿、まことに絵物語いひたてたるやうにうつくしく見えしを
濃い紫系統の直衣に指貫。若楓の衣とは表が薄萌黄色、裏が薄紅の衣を指します。
建礼門院右京大夫集より 資盛
枯野の織物の狩衣、蘇芳の衣、紫の織物の指貫きて、ただひきあけていきたりし人のおもかげ
「枯野」の狩衣とは、表が黄色、裏が青色(緑色)の普段着の衣のこと。蘇芳はその下に着ている衣で黒みを帯びた赤色です。指貫は紫。華やかな色の取り合わせです。建礼門院右京大夫はこの時の資盛の姿をとても若々しく、美しく感じ、終生忘れえぬものとして大切に胸に抱き続けました。



