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-平忠房(たいらのただふさ)-


平家の嫡孫、重盛の六男。丹後侍従。忠房は屋島の合戦後に落ちてゆき、行方がわからなくなっていましたが、実は紀伊の湯浅権守宗重を頼って、宗重の城にこもっていました。壇ノ浦の合戦後にこれを聞いた越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛は、平家に対する忠誠心を持っておりましたので、忠房に付き従い、お守りしていました。これを聞いた伊賀や伊勢の住人たちはわれもわれもと馳せ参じてきました。
 

これを伝え聞いた頼朝は、熊野別当に討伐を命じます。二,三ヵ月の間に八度まで攻め入ってきましたが、場内の兵どもが命を惜しまず戦ったので、熊野法師の兵が皆打たれてしまうほどでした。困り果てた熊野法師は頼朝に助けを求めます。頼朝は、計略として「小松殿(重盛)の公達が一人でも生き残られていれば、お助けするように。かくいう頼朝は、池の禅尼を使者に立てて死罪であったところを流罪にするように申された小松殿に命をいただいたのである」と伝えさせましたので、忠房は自ら六波羅へ名乗っていかれました。
 

頼朝はすぐに鎌倉で対面し、「都へお上がりくださいますよう。都の郊外にあなたのお住まいに良いと思われる場所を用意してあります」と、忠房をだまして上京させます。
 

しかし、すぐに頼朝はそのあとを追わせ、勢田の橋のあたりで忠房を斬ってしまいます。
忠房はおそらくまだ十代であったと思われます。戦に負けたものの定めとはいえ、口惜しいことでありました。山口県、赤間神宮には壇ノ浦で沈んだ一門とともに、七盛塚にその名を見つけることができます。
 


 

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