
「けふまでもあればあるかのわが身かは夢のうちにもゆめをみるかな」
-平教盛(たいらののりもり)-
忠盛の四男。母は大宮権大夫藤原家隆の女。邸宅が六波羅総門の中にあったので、門脇宰相とも呼ばれていました。
教盛は保元の乱の当時従五位上、29歳の淡路守でした。保元三年には大和守になり、ついで平治の乱の戦功により越中の守に任ぜられます。
兄清盛とは親しい教盛でしたが、娘婿の成経が鹿ケ谷での陰謀に加わったため、一門での立場は微妙なものになってきます。しかし、教盛は自分の娘が産み月近い体で、夫の身を案じて泣き伏すのを見てじっとしてはおられませんでした。早速、成経を伴って西八条へと急ぎます。
清盛は頑として面会を拒否。教盛は使者を立てて清盛を口説き落としにかかります。
「兄上。教盛はあのようなよしなき者と親しくなって返す返す残念ですが、一つ心配なことはわが娘のこと。この分では臨月の腹を抱えて、もう命も長くないと思われます。兄者。この教盛がついておるゆえ、決して今後、あやまったまねをさせませぬ。どうか、身柄をこの教盛に預けてみてはいただけまいか」
清盛はこれを聞き、「ああ、また弟が無分別なことを言う」と頭を抱えます。
「弟よ。成親が一門を滅ぼして天下を乱そうとする企てがあるのだぞ。この成経はまぎれもなく成親の嫡子だ。お前と親しかろうが疎かろうが、とてもとりなして私をなだめることはできないぞ。もし、謀反を遂行していたら、お前でも無事安穏としておれたと思うか」
しかし、教盛はくじけません。
「保元・平治の乱よりこの方、たびたびの合戦にも兄者の命に代われたら幸いとばかりに常に陣頭に立って闘ってきた。今後も吹き寄せる風はまずわしが防ごうという決心は変わらぬ。たとえ教盛が年老いても、若い子供がたくさんおるので、平家にとっても兄者にとっても強力な盾となろう。それなのに、成経を預かることを無碍に断るのは、兄者が私を信頼してくれてないからなのですな。兄者から見限られてはもう生きていても仕方がない。もはや、直ちに出家入道し後生菩提を念ずることとしよう。ああ、兄弟の契りといってもかくも浅いものであったか」
情に訴える教盛のやり方に清盛は大きなため息をもらします。「教盛め…。やつは、なにも分かっておらぬのじゃ。…もうよい、勝手にせい!」
教盛も長嘆息だった。「ああ、人の子は持つものではない。我が子の縁につながらなければ、これほど心を砕くことはあるまいに」
しかし、成経が父成親の生存を知って泣く泣く手を合わせて喜ぶのをみて、「子でなければ誰が自分の身を差し置いてこれほど喜ぶであろう。人の持つべきものは子だな」と思い返されました。後に、鬼界が島に流された婿に、教盛は何かと物を送ったりして面倒を見てやっています。穏やかで情の厚い人物であったと思われます。
その後の源氏との合戦には出陣しないで留守を守っていました。「わしは留守を守るのが一番」と言って、目覚しい表の合戦より後方の守備を得意としていたようです。
清盛の没後、凡庸な宗盛を補佐して一門の結束を図ったのは教盛でした。
教盛は都落ちに際して、兄経盛とともに歌を詠んでいます。
「はかなしなぬしは雲井にわかるれば跡はけぶりとたちのぼるかな」
はかないことであるよ。家の主人は都を雲のはるかかなたに離れてしまい、その跡は煙となって空に立ち上っている…。
都をおちて福原では、清盛の命日だというので仏事がかたちどおりに行われました。その折に叙位叙目が行われて、教盛が正二位大納言に任ぜられることを宗盛が言われましたので、教盛卿、
「けふまでもあればあるかのわが身かは夢のうちにもゆめをみるかな」
今日まで無事でいられるわが身ではなかったはずである。官位昇進ということも夢の中で夢をみるような空しいことである…。と、返事をされて、とうとう大納言にはなられませんでした。
一の谷の合戦では息子の通盛、業盛を亡くし、壇ノ浦ではその嘆きとともに入水します。生年五十七でした。