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「ふるさとをやけ野の原にかへりみてすゑもけぶりのなみぢをぞゆく」
-平経盛(たいらのつねもり)-



忠盛の三男。母は陸奥守源信雅の女。白河に邸宅がありました。
経盛は、清盛の壮健時代から一族のために大変な活躍をしてました。清盛の信頼も一方ならぬものがあったようです。
また、経盛はその一方で歌をよくする人でもありました。私家集を経盛集といい、勅撰集には約12首の歌がおさめられています。次の歌は千載集のものです。


「いかにせむ御垣が原につむ芹のねにのみ泣けど知る人もなき」

守覚法親王の仁和寺歌会の常連であり、自らも歌合せを主催するほどの上手で、二条三位と称し源三位入道頼政とも歌で交流があったようです。
 
一門が屋敷に火をかけ、都落ちの際の経盛の歌です。
「ふるさとをやけ野の原にかへりみてすゑもけぶりのなみぢをぞゆく」
振り返ってみる故郷は焼け野原であり、これから先も煙の立つ波路を行く…。

また筑紫に留まった折には、夕方の美しい月を見上げては、弟教盛、息子経正と思わず和歌を口ずさむのでした。
「恋しとよこぞのこよひの夜もすがらちぎりし人のおもひ出られて」
恋しいことであるよ。去年の今夜に一晩中ちぎりあった人が思い出されて…。

父である経盛がこのように風雅な人であったからでしょうか。子息たちはみな、詩歌管弦に秀でていました。皇后宮亮経正。若狭守経俊。無官大夫敦盛です。しかし…その息子達はみな、一の谷で戦死してしまうのです。経盛の悲哀はいかばかりだったでしょう。経盛は直実によって届けられた敦盛の首を、淡路島で手ずから荼毘に付しています。

経盛は壇ノ浦で鎧の上に碇を背負い、弟教盛とともに手を組んで海に入りました。このとき経盛は62歳です。


…兄、清盛とともに瀬戸内を駆け回り厳島神社の造営にも携わった。われらが大いに栄え、一門の公達が綺羅星のごとく宮中に居並んでいた往時。そして頼もしい息子達。私には素晴らしい生であった。ああ、哀れにも主上は二位殿とともに遷座されたもうた。…わたしも、すぐにそちらに参るとしよう。


経盛は何を思いつつ、海に沈んだのでしょうか。私には潔い武将、といった感じの経盛が想像されます。経盛も一門の運命を見届た後、竜王の城へと赴かれたのでした。
 

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