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邦綱

五条の大納言邦綱という人は、清盛の無二の親友であり、また密接な親戚としてのつながりもあった人物です。
華やかな武将や公達の物語に比べると邦綱の話は有名でないかもしれません。

しかし邦綱もまた、平家の隆盛に深くかかわる魅力的な人物です。

五条大納言藤原の邦綱。父は前右馬助守国といいます。
邦綱ははじめから身分の高い地位に恵まれていたわけではありません。その頭の良さと如才なさにて出世を遂げたといってもよいでしょう。

 

近衛天皇の御世、内裏で起こった火事から無事に天皇をお救いしたのをきっかけに宮仕えを始めた邦綱ですが、清盛と親しくなったのは邦綱が中納言となったころからのようです。
清盛は「現世での親友は、この人をおいて他にない」と言い、邦綱の息子を一人養子にして「清邦」と名乗らせています。

 

また、邦綱の娘輔子は、清盛の4男頭中将重衡の妻(大納言典佐)であります。
邦綱も毎日何か一品必ず贈り物を届け、清盛の相談相手となっていました。

福原遷都の際の新しい内裏造営を担ったのは邦綱です。
ここでも、清盛の成功のために尽力する彼の姿が目に浮かぶようです。
清盛の娘盛子と関白基実の結婚は、邦綱の助言によって実現したとも言われています。
また、その基実が亡くなった時、「摂関家の所領を盛子様名義にするよう」と清盛に勧めたのも邦綱であったそうです。

邦綱は、なかなかの風流人でもありました。
後白河上皇厳島神社参詣の折、清盛らとともに厳島に同行し、清盛が愛した神社内侍の家に2日間を過ごしました。
その帰り道のこと、上皇を中心に宴が催され、酒の席で上皇は、ふざけながら邦綱をからかいます。
「あの白い装束の巫女は、邦綱どのに懸想されていたようだが、どうだ」
邦綱は顔を真っ赤にしながら、
「そんなことはございません」

と、必死になって弁明しましたが、ちょうど間の悪いことに、その巫女からの手紙が邦綱に届きます。
「そらきた」と、みなが見つめる中、邦綱が手紙を開いてみると、

 

『白波の衣の袖をしぼりつつ きみゆへにこそたちももはれね』
…白波のような白い装束の袖を絞って泣くばかりで、あなたとの別れのつらさに立って舞うこともできません…

 

上皇は邦綱に返事をするように促します。

邦綱の返歌には
『おもひやれ君が面影たつなみの よせくるたびにぬるるたもとを』
…わたしこそ、あなたの面影たつ白波が寄せるたび、別れのつらさに袂を濡らしているのです…

さて、この邦綱ですが、清盛が亡くなるのと時を同じくして冥府に赴いています。
それは清盛の傍近くいて、その熱病が邦綱にも伝染したから?盟友を失った哀しみに、生きる気力すら失ったから?

 

…邦綱の死に関しては、興味深い説がいくつもありますが、当時盛んに行われていた呪詛によるものではないかという説が私は好きです。
邦綱は清盛の親友でもあり、また優秀な呪詛ブレーンであったとしたら、陰が形に添うように邦綱が清盛に従ったのもうなずけます。
そして陰陽師との呪詛合戦で清盛を守りきれず、自らも相手方の呪詛により業火に焼かれる苦しみを味わったのだとすれば…。

 

後白河院ら貴族サイド、東大寺・興福寺らの宗教勢力サイドからの呪詛は、あながちない話ではないだけに興味をそそられます。
 
では、邦綱の死後、平家とともにあった彼の子供たちの運命はどうなったのでしょうか。
清盛の養子となった清邦は壇ノ浦まで平家に付き従い、運命を共にしました。
重衡の妻となった大納言典佐は壇ノ浦で3種の神器の一つ、神鏡を入れた唐櫃を抱えて海に飛び込もうとしたところを源氏に捉えられてしまいますが、そののち落飾した建礼門院に生涯仕え、大原でその一生を終えたとされています。

 

邦綱の子らもまた、父親同様に平家にとってなくてはならない人物であったのです。

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