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​覚悟

壇ノ浦の合戦において、最も涙を誘うくだりといえば、やはり安徳帝御入水のシーンであると思われます。

二位殿と建礼門院。

平家繁栄の時代を陰で支えた母娘二人の運命はここで大きく別たれてしまいます。
清盛亡き後、一門を守ってきた二位殿のなみなみならぬ覚悟についてはまた別に述べるとして、ここでは建礼門院について少しお話をしたいと思います。

建礼門院は壇ノ浦ではからずも命を救われ、一門の菩提を弔いながら生きていくこととなりました。
このことについては、一般的には多少厳しい見方もされているようです。
なぜ、我が子の命を祖母である二位殿に任せたのか。
おめおめと源氏に助けられて、本当に死ぬ覚悟はあったのか。
そして、そうした批判とともに、結局建礼門院は流されやすく、お人形のような女性だったのではないかという人物像が作り上げられていたりもします。

確かに、安徳帝の入水にあたっては、祖母である二位殿が最も重要な役割を握っています。
一門の大切な帝を、そして三種の神器を永遠に一門がお守りし、後白河や源氏勢の手に渡らぬようにするためには、確実にその役割を全うさせなければなりません。
そういったことをあれこれ考えてみますと、やはりそれは二位殿にしかできないことであったのではないかと私は思います。

では、どうして建礼門院にはそれが出来なかったのでしょうか。
私の個人的な意見を述べれば…、それは建礼門院が安徳帝の母親だったからだと思うのです。
自分自身が一門とともに死ぬ覚悟は、彼女も十分に出来ていたのだと思います。
 
けれど、愛するわが子を自らの手で死に導く覚悟は?

いざ入水、という状況にあったとしても、子供を胸に抱いたならば、私ならきっと覚悟が鈍ってしまうでしょう。

 

最期の瞬間もわが子と離れずにいたい。手放したくない。
けれど、わが子が苦しむ姿を見て、入水を遂げさせることが自分に出来るだろうか。
できることならば、自分はどうあってもこの子だけは生かしたい…!

壇ノ浦の船上で、建礼門院はこのような思いに苦しんだのではないでしょうか。
 
そして建礼門院の心中は、その母親である二位殿もよく分かっていたのだと思います。
また、当然彼女にも同じ気持ちはあったはずです。
可愛い孫…、そして子供たち。本当を言えば、生かしてやりたい。
…しかし、平家壊滅となれば、これは避けて通れぬこと。
安徳帝を二位殿が抱いて入水したのは、建礼門院が頼りなかったから、というだけではなく、一門全体としての意志を示す必要があったからなのかもしれません。

 

それは、一門を築いた清盛の遺志を完全に理解・具現できる彼女以外には務まらなかったからでは、と私は思うのです。

入水の瞬間、安徳帝と建礼門院は視線を交し合えたでしょうか。
それとも、二位殿はあえて帝の花のお姿を袖で隠され、海に入られたのでしょうか。

 

「わたくしも・・・」
建礼門院は硯石や焼き石を左右の懐に入れて、身を重くし、急ぎ後を追っています。
男性であれば、知盛のように鎧や碇を背負って飛び込むこともできたかもしれません。
けれど、国母としてかしずかれ、守られて過ごした身。
浮き上がって恥を見せぬため、と彼女が錘に選ぶことが出来たものは、御座船の硯や焼石のみ。
飛び込んだ後も、その長い御髪と装束が海中で広がり、深く海中に沈むのを妨げてしまいました。
 
私には、死ぬことすら許されない…。

源氏に引き上げられて、自由を奪われた建礼門院の胸に浮かぶのは、最後の合戦前の二位殿の遺言であったかもしれません。
「生きて、帝の、一門の菩提を弔うのです。他の誰でもなく、あなたが」

死ぬ覚悟と、死へ導く覚悟。
もしくは、死ぬことも許されず、1人生きる覚悟。
いずれも、大変に辛く、悲しいものです。
 
「過去聖霊・必ず一仏土へ」
昔は東に向かい、「伊勢大神宮、正八幡大菩薩、天子宝算千秋万歳」と祈られていた建礼門院。

落飾後の寂光院では、西に向かい手を合わせ、このように祈りを捧げられていたということです。

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