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 「御継の兵は無きぞ。ただ、此勢ばかりなり。」
-平基盛(たいらのもともり)-



清盛の次男。保延五年生まれ。母は、重盛と同じく高階基章の女。幼名は香王。大和守、淡路守を経て越前守に任じられ、内蔵頭になりました。
平家物語中には基盛の記述はほとんど無いのですが、保元・平治物語には基盛の勇ましい姿が描かれています。19歳の頃の話です。

一院が崩御の後・・・、謀反の輩が京中に入り集まり、多くの武士達が京中に満ち満ちて狼藉をはたらいていました。いつ戦が始まるのかと人々はおびえ、京には不穏な空気が漂います。戦ともなれば天皇方と上皇方のどちらかが血を見ることは明らかでした。そこで、天皇は御所をかためるために、基盛に宇治路を守るように命じられました。この戦・・・、保元の乱で平家は天皇方に味方しています。

基盛は百騎ばかりの勢にて宇治路を固めに行くところ、法性寺のあたりで異様な集団に出会います。そのいでたちといえば、全員甲冑で身を固めた一群の武者が十四,五騎、腹巻をして矢を背負った徒歩の武者十四,五騎。
「さて、どこからどこへいき、どなたがどなたのもとへ行くための味方に馳せ参じなさったのか。私は基盛と申すもの。宇治橋を固めよとの命を受けてまかり向かうのである。内裏へ参られるというなら、基盛に打具し給え。」
基盛が言葉をかければ、
「これは大和の国の住人、宇野七郎親治が、頼長殿の仰せにて新院の味方に参ずるのである。」
どうやら相手は祟徳上皇がわにつこうとしている相手のようでした。
「安芸の守、清盛が次男、安芸の判官基盛が宣旨のお使いであるぞ。従わぬとあらば、通すわけには行くまい」
相手は手綱を引き絞り、基盛をののしります。
「弓矢取る身は主二人は持たぬものを。聞くらんものを。われは今だ武勇の誉れ落とさず!源氏は二人の主とることなし。宣旨であろうが何であろうが、ここは通してもらおう。」
有無を言わさず、強引に打って出ました。対する基盛は百余騎の勢をもって、中に取り込めてからめとろうとしました。
親治はくつわを並べ、甲のしころを傾け、縦横無尽に駆け回ったために、基盛の手勢はたちまち多く討たれてしまいます。
基盛はまだ19歳になったばかり。親治も多少あなどっていたのでしょう。しかし・・・、基盛は若いけれども機転のきく武将でした。高いところへさっと馬で駆け上がって東西南北見まわし、大音声で呼びかけます。
「助勢はいないぞ! ただこの勢いで押してきているだけだ! この者らを生け捕りにせよ!」
味方はたちまち勢いづき、一騎に三騎、五騎がよりあいよりあい、組んでは落とし、組んでは落としして、からめとっていきました。
ついには宇野七郎はじめ十六人を絡めとって天皇に奏上したため、ますます平家の武将の信頼は篤いものとなりました。

平治の乱では他の兄弟と共に、一門の命運をかけた戦いに参加しています。
清盛が勢いに任せて出陣するのに続き、「大将軍を矢面に立たせじ」と、重盛、基盛、宗盛以下息子達は我先にと駆けたようです。

しかし、彼は応保二年には病気で没してしまいます。単純に計算してみると23歳くらいでしょうか。幼い頃はやや体がよわく、学問の方に才を見せていたということです。その血を受け継いだのか・・・、基盛の忘れ形見行盛は、後に忠度、経正に並ぶすぐれた歌人へと成長しています。


 

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