
大宰府天満宮
太宰府天満宮には学問の神様として有名な菅原道真がお祀りされており、多くの人々の崇敬を集めています。
年間700万人あまりの人々が訪れるとも言われ、九州でも有数の観光名所となっています。
その一方で大宰府は平家との縁も深く、清盛の父・忠盛が肥前国神埼荘の院司であったころからの関わりがあります。
保元三年八月に清盛が太宰大弐に任命されてからというもの、清盛は太宰府の実質的な長官として、日宋貿易をさらに広く発展させていくのです。
清盛は後に、弟である頼盛を太宰大弐として実際にこの地に赴任させ、日宋貿易の実権を掌握するとともに、九州の武士たちを平家武士団に組織していきます。
また大宰府は、平家繁栄の礎を築いた地であるとともに、平家滅亡への途を見つめた地でもあります。
寿永二年、木曽義仲に都を追われた一門は、安徳帝とともに大宰府安楽寺(現在の太宰府天満宮)へ逃れてきました。
一門は安楽寺にて連歌を催し、神へと奉仕をされましたが、その際の重衡の歌に皆は袖を濡らします。

「住みなれしふるき都の恋しさは 神も昔におもひしるらむ」
神、とは道真を指します。
大宰府に左遷されたあなたであればこそ、都を追われ、都を恋しく思うこの辛さを理解してくれるでしょうと、重衡は訴えたのです。
しかし、この地も平家にとって安息できる地ではありませんでした。
豊後の豪族、緒方惟義に攻められ、大宰府からも追われることとなります。
このときの一門の敗走の様子は壮絶なものでした。
「をりふしくだる雨、車軸のごとし。吹く風砂(いさご)をあぐとかや。おつる涙、ふる雨、わきていずれも見えざりけり。住吉、筥崎、香椎、宗像ふしおがみ。御足より出づる血は沙を染め、紅の袴は色を増し、白き袴は裾紅にぞなりにける・・・」
帝はじめ建礼門院以下女房たち、前内大臣平宗盛以下殿上人たちも、袴をからげて徒歩立ちのままで追われていきます。
折からの土砂降りの雨、女性たちの悲鳴、流す涙と降る雨の激しさに区別もつかぬありさま。
足より流れ出る血は赤々と砂を染め、女性の紅袴はさらに濃く、白袴は裾紅に染まってしまうのでした…。

現在の太宰府。ことに社殿は多くの参拝者で賑わっています。
九州の古都として栄えた大宰府だからこそ、一門の隆盛・衰退ともにかかわりを生じてきました。
道真公に押されがちではありますが、ほんの少しでも、一門の辿った道筋に心を運んでくだされば幸いです。