top of page

 「今は西海の浪の底に沈まば沈め、山野に屍をさらさばさらせ、浮世に思いおく事候はず」
-平忠度(たいらのただのり)-



清盛の末弟。母は鳥羽院女房。丹後守藤原為忠女とも。平家の歌人武将として知られ、治承4年には知盛らとともに以仁王らの軍を宇治川に破ります。同年十二月には三井寺攻めに副将軍として参加、養和元年には墨俣川の合戦にて源行家を大敗させるなど、戦績を残しています。しかし寿永二年、木曽義仲追討に向かった北陸では、奇襲戦法により大敗。七月二十五日、一門は幼い安徳帝を具して都落ちしていくこととなりました。
一門は六波羅の邸宅をはじめ、家来達の宿所、白河一帯の民家4,5万軒にいたるまで一度に火をつけて焼き払いました。混乱の中、慌てふためいた平家一門は天皇とともに渡御すべき宝物の数々をさえ、取り落とすほどであったそうです。

こうしたなか、忠度は侍五騎、侍童一人を合わせたわずか七騎で都落ちの列を離れ、五条京極にある歌人藤原俊成の邸宅まで引き返してきます。邸宅の前に立つと門は固く閉ざされていました。
「忠度」
名乗りをあげると門の中では「落人が帰ってきたぞ」と大騒ぎをします。
「俊成殿に申し上げるべき次第があって戻ってまいりました。開かれずとも門の際までお立ち寄りください」
と言えば俊成、「仔細のあることだ。この方ならばかまわない、門を開けてお入れもうしあげろ」と命じ、対面を果たすことができました。
「ここ数年続いた都での騒動、国々の乱れのために歌の教えを受けに参れませんでした。しかし、主上もすでに都を離れられ、平家一門の命運ももはや尽き果ててしまいました。勅撰集を編纂なさると聞き及びまして、生涯の誉れに一首でも入れていただきたいと思っておりました。しかし、世が乱れ沙汰やみになったとのこと、まことに残念なことに思います。世が静まれば、再び勅撰集の話もありましょう。この中から一首でもお選びいただけますれば、無上の喜び。あの世から俊成卿をお守り申し上げましょう」
忠度は日ごろ詠んだ歌で、良いと思われる和歌を100首ほど書きとめた巻物を俊成に手渡しました。俊成も忠度の覚悟の程を知り、「こんな忘れ形見を頂いた上は、どうしてなおざりに考えましょう。どうぞ、ご安心ください」と袖をぬらします。忠度は、「この上はもう、西海の底に沈まば沈め、山野に屍をさらすならさらせ、もう、思い残すことはございません」と別れを告げ、再び西を指して落ちていったのでした。

俊成が次第に遠のいていく忠度の後姿を見送っていると朗々と口ずさまれる漢詩の一説が聞こえてきました。
 「前途程遠し。思ひを雁山の夕の雲に馳す…」
この漢詩はさらに続いて「後会期遥かなり…」と記されており、再会しがたい別離の悲しみがうたいあげられています。忠度はこれが師との最後の別れになることをわかっていたのでしょう。だからこそ、和歌という永遠なものに命を託すことによってわが身の無常を越えたいという切なる願いがあったのかもしれません。
 
やがて世も落ち着きを取り戻し、千載集が勅撰されることとなりました。俊成は忠度のことを哀れに思い、取り上げたい歌はいくつもあったものの、朝敵の平家なので一首を詠み人知らずとして載せることにしました。

古郷の花といへる心を詠み侍りける  詠人知らず
「さざなみやしがのみやこはあれにしをむかしながらのやまざくらかな」
志賀の旧都は荒れ果ててしまっているが、山桜は春が巡り来るたび必ず花開いて昔のままの姿をとどめてくれることだ…。

都落ちした平家は一度は九州までひき、再び福原の旧都で勢いを盛り返しつつありました。しかし、義経率いる源氏軍の奇襲により平家は総崩れとなってしまいます。一の谷の西の手の大将軍であった忠度も敗れ、わずか100騎ばかりで西の方に落ちていきました。
そのとき、坂東武者の岡部六弥太忠純が大将軍と目をつけて追いついてきました。「待たれい! いかなるお方か名乗らせたまえ」と呼びかけると、忠度はとっさに「私は見方である」と答えて振り仰ぎました。しかし、忠純は忠度の歯が黒く染められているのを見て、平家の公達であることに気づき組んできます。それを見た平家の武者は我先にと逃げ出してしまいます。
「にくいやつめ。味方だと言わせておけばよいものを」
と言うなり、熊野育ち大力の早業で太刀を抜き放ち忠純を三刀もさしたものの、急所をそれた上に多勢に無勢、ついに右腕を切り取られてしまいます。もはや最期と覚悟した忠度、忠純を7,8尺も投げ飛ばし、
「しばし退け。念仏を10遍となえる」と言って、西を向いて声高らかに十念となえ、「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨…」と唱えているところを後ろから首をかかれました。
忠純は、良い大将軍を討ったとは思うものの、その名が分からないでいました。ふと、箙に結び付けられていた文を解いてみると一首の和歌が書き付けられていました。

 旅宿花
「ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひの主ならまし  忠度」
旅に行き暮れて桜の木の下かげを宿としたならば、今宵の宿の主人は桜の花がつとめてくれるのであろうか…。

「平氏一門の中でその名を知られた薩摩守殿を武蔵の国の住人岡部六弥太忠純が討ち取ったぞ!」
首を刀の切っ先に指して大音声で名乗ったのを聞いて、敵も味方も「ああ、お気の毒なことだ。武芸にも歌道にも優れたお方だったものを…」と涙を流し袖をぬらさぬものは無かったということです。このとき忠度41歳。本当に惜しまれる討ち死にでした。平家の武将は風雅ではあるものの、坂東武者に比べると弱弱しいと言ったイメージをもたれがちですが、忠度のように互角に渡り合える武将が何人もいたことも見落とせません。まことに天晴れな武者ぶり、歌人ぶりに後世の人々も同情を惜しみませんでした。
「更くる夜半に門をたたき 我が師を訪ねし言の葉あわれ
 今際の際まで持ちし箙に 残れるは花や今宵の歌…」 
こんなやさしい歌が哀切なメロディーで今も歌われています。

​お問い合わせ・ご意見
  • Facebook
  • Twitter
  • YouTube
  • Pinterest
  • Tumblr Social Icon
  • Instagram
©2019 花のかんばせ 無断転載禁止

Success! Message received.

bottom of page