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-平経俊(たいらのつねとし)-


経盛の次男。若狭守。生没年は未詳ですが、弟敦盛の年齢と、兄経正のおおよその年齢から考えますに、一の谷の合戦当時は十代後半から二十代前半くらいではないでしょうか。


経俊について言及している書物は非常に少ないのですが、平家物語には経俊の最後の様子が記されています。
一の谷の合戦において、経俊、清房(淡路守、清盛息子)、清貞(尾張守、清盛息子)ら三騎は連れ立って敵の中に駆け入り、多くの敵を討ち取りました。しかし・・・多勢に無勢。力及ばす、三人同じところで討ち死にしたようです。

父経盛は和歌の道、兄経正は琵琶・和歌の道、弟敦盛は笛の道で大変有名ですが、この経俊に関してはそのような記録が残っていないのが残念です。おそらくは和歌も詠み、管弦のたしなみもあったのだと思いますが・・・。


あるいは、経俊は詩歌管弦よりも武人としての方面で優れていたのでしょうか。多くの公達が海上へ逃れる中、わずかな手勢で踏みとどまり、敵の中へ切り込んでの討ち死にをとげた経俊です。
 

本当に平家一門は、一の谷の合戦で数多くの惜しまれる人物を失ってしまいました。
 
経俊の塚は、兵庫県の鎮守稲荷神社にあるようです。いつか訪れた時には、ゆっくりと経俊の話を聞いてみたいものです。
 

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