
「かくまではあはれならじをしぐるとも磯の松が根枕ならずは」
-平行盛(たいらのゆきもり)-
基盛の忘れ形見、左馬守行盛。父を早くに亡くした行盛は、経正たちと同じく、和歌に優れた公達でした。
寿永二年の都落ちにあたっては、藤原定家に詠草を残しています。のちに新勅撰集が編纂された折には、詠み人知らずとして行盛の歌もおさめられました。
読人不知 海辺の時雨といへる心をよみ侍りける
「かくまではあはれならじをしぐるとも磯の松が根枕ならずは」
これほどまでに心細い思いはしないものを。たとえ時雨にあっても磯辺の松の根方を枕に旅寝をするのでなければ・・・。
また、一の谷の戦に破れた一門が東国や鎮西からの軍兵におびえていたときのこと。
二位の尼や建礼門院以下女房たちは寄り集まって歎き悲しみあっていました。
「ああ、この次はどんな辛い目にあうのでしょうか・・・」
「どんな辛い話を聞くのでしょうか・・・」
萩の上風は冷たく身に沁み、萩の下露もいよいよ繁く、恨むる蟲の声々、木の葉かつ散る景色、
一門の公達も、武将も、女房も、皆うら悲しい秋の月を悲しんでいました。
およそさやけき月を詠じても、都の今宵の月はいかならんと、かえって涙で袂を濡らすのです。
そんな一門の胸中を代弁するかのように、行盛は口に和歌を上らせます。
「君すめばここも雲居の月なれどなほ戀しきは都なりけり」
主上の住んでおられるここは、雲居の月であるけれども、やはり都の月が恋しく思われるものだ・・・。
行盛は元暦二年、壇ノ浦の合戦で亡くなっています。資盛、有盛とともに、手に手を取り組み、碇を背負っての入水でした。
資盛と有盛の父である重盛も、行盛の父である基盛も、高階基章女が母であることから近しい間柄だったのでしょうか。
山口県の赤間神宮にある七盛塚には、一緒に沈んだ三人のうち行盛の塚だけがありません。行方がわからなかったのか、なにか意味があってのことなのかは分かりませんが・・・、塚は無くとも、人々の回向の気持ちは届いているものだと信じたいものです。