
「何くへ行かば遁べきかは、存へはつべき身にもあらず」
-平清経(たいらのきよつね)-
重盛の三男、左中将清経。平家物語によると、清経は何事も深く考える性質であったといいます。
平家が九州大宰府を追われて、船中で漂泊していた神無月の月の美しい夜の事。清経は船端にたちいでて、横笛の音をとり、朗詠しておりました。懐には都に残した妻からの歌。
見るたびにこころつくしのかみならば
うさにぞ返すもとのやしろへ
「都を源氏に攻め落とされ、鎮西を惟義に追い出され、もはやわれわれは網にかかった魚がごとし。いずこへ行けば逃れられようか。もはや、生き長らえることなどできようはずがない」
清経は心を決めました。静かに経を読み念仏して、そのまま海に入ります。多くの公達・女房が泣き悲しみました。のちに、建礼門院は「これぞ憂きことのはじめにては候ひしか」と懐古しています
謡曲「清経」では清経の死後、悲嘆に暮れる妻のもとを清経自身が訪れ、入水にいたる経緯をかたっています。
入水自殺した清経は、形見にと一房の髪を残していました。それを、清経の家臣である淡津三郎が、都にいる妻に届けます。しかし妻は、敵に打たれたとか、病に倒れたなら納得もできますが…と、その髪を受け取ろうとしませんでした。
その夜、妻の夢枕に清経が立ちます。清経は、どうして形見の品を受け取らないのかとうらみ、妻は、どうして入水などされたのかと涙にくれます。清経は、自分が入水にいたった経緯を語り始めました。
「豊前に皇居を定め、宇佐八幡宮にいろいろと祈願したものの、すべて無駄なことであるというご託宣があったのだ。神仏に見放されたと一門は悲嘆にくれた。しかし、私は考えたのだ。このまま、神仏に捨てられ、浮き草に漂うわれら一門であってよいのだろうかと。そうして、月の晩に船で笛をかなで、自分の行く末を考えたのだ。たとひ狂人と見られようとも、弥陀の本願に頼るほかはないというところにたどりついたのだ。私は、心静かに念仏し、そのまま海へ入ったのだよ…」
妻は、それでも納得がいかず、泣き崩れてしまいます。
「それでも、入水されるなどとはうらめしいことです」
清経は死して後、修羅道に落ちていました。その修羅界で戦う姿を妻に見せてやりました。雨のように降り注ぐ矢、鉄壁の城、雲霞のごとくなびく敵の旗…。そんな中で清経は縦横無尽に戦っていたのでした。
やがて、清経は念仏を十回唱えると、妻の目の前で成仏してしまいました。私には、なんだか、すがすがしい(?)ような成仏のしかたであるように思えます。ああ、もうこれで思い残すことはない、と…。実際の清経もかくあって欲しいと思うのは私だけではありますまい。