
「今は我が身とても、存ふべしとも覚えぬものを」
-平資盛(たいらのすけもり)-
平家の嫡孫、重盛の次男。母は親方の娘。6歳で従五位に叙せられて後は順調に昇進し、従三位となります。
この資盛は、まだ越前守であったころに、ある事件を起こしています。平家物語に伝えられる「殿下の乗合」です。嘉応二年、十月十六日。この日は朝から冷え込み、都内外が美しい雪景色に彩られました。
夕刻頃、大炊御門通りを道いっぱいに広がって、総勢三十騎ばかりの集団が押してきました。みなりりしい若武者ばかりで、馬腹に従う郎党たちは腕に鷹を据え、今日の鷹狩りの成果を自慢しあっていました。その中心で駒を進めるのは、重盛の次男、資盛でした。資盛は、祖父清盛の若いころによく似ていたといわれる精気あふれる少年で、この時は13歳でありました。 この集団が猪熊あたりに差しかかったとき、時の摂政関白基房の行列と出くわします。郎党たちのなかには、向こうからやってくる牛車が基房のもの田と知り、馬をよけようとしたものもありましたが、何しろたった今狩りから帰ったばかりの血気盛んな若者達、そこを駆け破って通ろうとしました。 「こはいかなる狼藉ものぞ!摂政殿下のお通りであるぞ!」 基房の牛車を固めていた者達がどっと動きました。彼らの中には、資盛の一行であることを知っていた者もありましたが、知らぬ顔をして馬から引き摺り下ろし、めちゃくちゃに殴りつけられました。おそらく、基房は牛車の中で止めることもできず、ただ震えているばかりだったでしょう。
資盛ははいずるようにして六波羅へ戻りました。父重盛のもとへは行かず、直接清盛の前に伺候しました。清盛はかわいい孫の悲惨な姿に動転し、うろたえます。日ごろ頼りきっているこよなくやさしい祖父の前で、資盛は悔しさのあまり涙を流しながらこれまでのいきさつを話しました。聞き終わった清盛は大いに怒り、「おのれ!基房め!たとひ、関白摂政であろうとも、この清盛の身内とあったら当然遠慮すべきものを!幼いわが孫を捕らえてかような目に合わすとはなんたること!」
そこへ、知らせを受けた重盛が悠揚たる足取りで登場します。今にも太刀をとって駆け出していきそうな郎党達をじろりとにらみ、清盛に静かに進言し、資盛をつれて帰っていきました。
しかし、数日後、清盛は腹心の郎党達に密かに命令し、基房の行列を襲わせます。これを聞いた重盛は驚愕し、郎党達を厳しく戒め、その場で資盛に伊勢に退くよう命じます。
と、かくもやんちゃ(?)な少年時代をすごした資盛も一門の中では優れた歌人でした。「新勅撰和歌集」「風雅和歌集」にもその名をとどめています。なかでも建礼門院に使えた女房、右京大夫との歌をとおした交際は有名で、そのやり取りは「建礼門院右京大夫集」に詳しいです。そして、彼が最後に残した一言が、彼女のその後の人生を決めることとなりました。「あなたには、いつも誠実だったとはいえないから、恨んでもいるだろうけど、私の後世を頼む人はあなたしかいないのだ」
また資盛は、異母兄弟の維盛ともたいへん仲がよかったらしく、維盛がが入水の折に残した文を受け取り、「今は我が身とても、存ふべしとも覚えぬものを」と、悲痛な叫びを残しています。資盛は、その姿が維盛とよく似ていたため、これを見た侍達も鎧の袖をぬらしたということです。
壇ノ浦の合戦では有盛、行盛とともに、手に手を取り組み、碇を背負って一つところに海に沈みました。27歳ごろの春のことでした。