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「そもそも尼前、われをばいずちへ具していかんとはするぞ」
-安徳帝(あんとくてい)-


第81代天皇。高倉天皇と平徳子(建礼門院)との間に生まれた第一皇子、言仁。
清盛が苦しめた多くの人々の生霊や死霊にのろわれ、出生前から母体の建礼門院を苦しめています。
3歳で即位し、以後一門と運命をともにしています。

壇ノ浦で二位の尼に抱かれ、8歳で入水。安徳帝入水のくだりは、本当に胸が締め付けられるようなおいたわしさです。

安徳帝は実際のお年よりもずいぶん大人びて見え、お姿は美しく、あたりも照り輝くばかりだったということです。
 

そのいとけない帝は、小さな美しい手をあわせ、まず東、そして西方を伏し拝み…。ついに竜宮へと赴かれたのです。
 

安徳帝は、出雲の大蛇の生まれ変りであったとも伝えられます。三種の神器の一つ、宝剣はスサノオの尊が出雲の大蛇の尾より得たもので、その大蛇が安徳帝に再誕し、これを奪い返したともいわれます。

この安徳帝、実は壇ノ浦で入水せず、平家に守られて落ち延びたのだとも各地で伝えられています。そのため、安徳帝の陵墓は各地に存在しているのですが、多くはおよそ後世の作為にかかる伝説的なもののようです。
 
私はこの幼帝を思うとき、特に痛ましい気持ちがいたします。かように幼い帝を、なぜむごたらしくも海の藻屑としなければならなかったのか。

生を受けたときから、一門の栄華の象徴として、神のごとく遇された安徳帝。

帝はまた、一門の最期の切り札でもあったのでしょう。安徳帝を擁している限りは、平家は官軍であったはずですから。

 

三種の神器と安徳帝―。

 

いや、むしろ、都の後白河からすれば幼い帝のことなどどうでも良かったのかもしれません。帝の正当性を示す三種の神器さえ取り返せればよい―。


安徳帝は、一門の中では神格化されていたのかもしれませんが、実際には(今の私たちからの感覚からすると)ほんの小さな男の子に過ぎません。

あのような時代、安徳帝のようなケースは決して珍しい話ではなかったのかもしれませんが、きっと建礼門院の、また二位の尼のひざの上に長く留まっていたかったでしょう。
 

竜宮へと身を移された安徳帝。波の下の都ではどうか、どうか、幸せであって欲しいと祈らずにいられません。





 

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