
「これを召し出され、刀の実否によって咎の左右行はるべきか」
平忠盛(たいらのただもり)
清盛の父親。
備前の守であった頃、鳥羽院のために徳長寿院を造営。三十三間の御堂を立てて一千一体の御仏を安置(今の三十三間堂です)献上いたしました。
これにより但馬の国を賜り、また36歳にして初めて殿上に上ることを許されました。
このことを嫉み憎んだ殿上人たちは忠盛を闇討ちにしようとたくらみます。
その日は五節豊明の節会。昇殿を許された人のほとんどは、そのたくらみを承知しており、目引き袖引き、聞こえよがしに噂話をしていました。
「卑しい武家づれが!昇殿などとは思い上がりも甚だしい!」
皆の視線が忠盛に注がれました。
その刹那。
忠盛は束帯の下からギラリと光るものを取り出しました。
並み居る殿上人たちはそれが小刀だと気付くや、たちまち水を打ったように静まり返ってしまいました。
しかし忠盛は、いささかも表情を変えることなく、天鬢のほつれ毛をふつ、ふつと断ち切っていきます。燭台の火をはねかえした刀はいよいよ氷のように冷たく光ります。
その場にいた者は、みな身じろぎもせず、息をのんで忠盛を見守っていました。
やがて忠盛は、手にした刃を束帯の中にしまいました。
そんな中、蔵人より、忠盛の郎党が殿上の間の前庭に座り込んでいるとの報告が入ります。
恐れをなした人々は闇討ちどころの騒ぎではありません。
上皇は、はるか末席で起きたこの事件にお気付きになろうはずがありません。
舞の名手である忠盛に、舞をひとさし、と命じました。
忠盛は心得て立ち上がると、歌いながら舞い始めました。
公卿たちの甲高い女性的な発声と違って、忠盛の声は腹のそこから出てくる太い、朗々たる声でした。
その舞も武術で鍛えているだけに、差す手引く手も流れるかのよう。
しかし、曲の途中で突然、殿上人たちは拍子を変えてはやし立てました。
瓶子は
瓶子は さまざまあれど、ヤ
さまざまあれど、ヤ
伊勢の瓶子は酢瓶なり
伊勢の平氏は眇目なり
伊勢の瓶子に事寄せ、忠盛の眇(すがめ)をからかっているのです。
忠盛の顔に、屈辱と苦渋の色がみなぎりました。
しかし、これを耐え忍び、ともかくその日は退出します。
殿上人たちは、忠盛の姿が消えたのを見ると、御所もゆれるばかりの大騒ぎでした。
「忠盛め、思い知ったか!」
そして宴が果てるや、いそいそと上皇に訴えました。
「帯剣して公の饗宴にのぞみ、武装した郎党をも控えさせるとは何たる狼藉。即刻忠盛の官位を剥ぎ取り、追放すべきと思われます」
上皇は大いに驚かれ、早速次の日忠盛を召されました。
このことを予想していた忠盛は直ちに参内し、次のようにお答えしました。
「郎党の事に関しては、私の知らぬことでございました。しかし、私にかかわるうわさを伝え聞いて主人の身が大事とばかりに推参いたしたのでございましょう。もし、郎党に咎めがあるならば身柄を差し出します。刀の件につきましては主殿司に預けいたしておりますのでお調べください」
上皇は直ちに主殿司の詰め所に使いを走らせました。
そして、その刀をお調べになると、思わず笑みを漏らされました。
それはただの木刀に銀箔を押し付けたものにすぎなかったのです。
「後日の訴えをおもんぱかり、木刀を帯す用意のほど、見事。弓矢取るものはかくもありたいものよ。」
とかえって御感にあずかり何の咎もなかったということです。
さて、忠盛は歌詠みの上手としても知られていました。
鳥羽上皇が「明石の浦とはどのようなところであったか」と尋ねられたところ、忠盛は
「ありあけの月も明石の浦風に浪ばかりこそよるとみえしか」
と答えました。この歌は後に金葉集に入れられます。
また、忠盛は上皇の御所に使える女性のもとに通っていたのですが、あるときこの女性のところに月を描いた扇を忘れてきます。
その仲間の女房は「いったいこれはどこからさして来る月影でしょう」と笑いますが、忠盛の通う女性は少しも騒がず切り替えします。
雲居よりただもりきたる月なればおぼろげにてはいはじとぞおもふ
この女性こそ、後に一の谷の合戦でいまわの際まで和歌を忘れなかった薩摩の守忠度の母でありました。
忠盛も風流なれば、彼の愛した女性も優雅です。
その一生を通して平家一門繁栄の土台を作った忠盛は、仁平三年の正月十一日の夕暮れ時、突然に倒れました。
そのまま大鼾を発して眠りつづけること4日間。
十五日の朝にはそのまま意識を回復することなく息を引き取りました。
五十八才でありました。
忠盛の死に際して、藤原頼長は宇塊記抄に次のように記しています。
「数国の吏を経て富は巨万を累ね、奴僕は国に満ち、武威は人に軼ぐ。
然れども恭倹にして、いまだ嘗て奢侈の行いあらず」
富と力を兼備し、しかも驕らぬ人であったということです。