top of page

「こはされば、何事ぞや。なほ妄執の盡きぬにこそ」
-平維盛(たいらのこれもり)-

 
重盛の長男。清盛の直系の嫡流です。三位中将。維盛はその姿の美しさにより、女性たちに「桜梅少将」といわれていました。しかし、重盛の死後、小松家は一門の中でも微妙な立場にたたされます。維盛は平家の嫡流というには、やや武人らしさにかけるとこがあったのかもしれません。重盛の息子だけあって学問にも優れ、情けも深い。しかし、鹿ケ谷の陰謀の立役者、藤原成親の娘を正室としていたこともあってか、徐々におじの宗盛のほうに実権が移っていきました。

 維盛は、富士川、倶利伽羅峠の戦いで大将軍を務めるものの、大敗してしまいます。それ以来すっかり気落ちしてしまった維盛は、しばらく家に閉じこもったきりの生活を送ります。
 やがて一門は都を落ちてゆくことになりました。一門のほとんどの者は妻子を伴って落ちてゆくのに対し、維盛は妻子を都にとどめる事にしました。「行く末も知らぬ旅の空、どうしてそなたたちに憂き目を見せられよう。」心を固くし、思い切って馬に乗ろうとしますが、かわいい子供たちに鎧の袖を引かれます。「御父上、いったいどこにいかれるのですか? 私も参ります。私も行きたい。お願いです、御父上連れて行って」と後を慕って泣きじゃくります。北の方も「日ごろは、これほど情けのない方とは思いませんでしたのに…」とうち臥して泣かれました。その声は、維盛の耳に残りとどまって、西海に立つ波の音、吹く風の音にまでも妻子の声を聞く思いをされたことでしょう。
 
 一の谷の戦の後、屋島に一門がとどまっていたとき…、維盛は密かに屋島をまぎれ出て、高野山へと向かいます。寿永3年、3月15日の暁のことでした。高野山には父重盛の侍であった滝口入道という知り合いがいました。「故郷の妻子への思いは断ちがたく、せめて今一度会いたいと思うものの、重衡殿の様に囚われの身になることはいかにも残念じゃ。ここで出家して、火の中、水の中へでも入って死にたいと思うが、熊野へだけは参りたい宿願がある」維盛は潮風に焼けて黒くなり、物思いに痩せ衰え、これがその人かと思われるほどでした。
 
 一夜明けて維盛はついに出家しました。屋島から伴ってきた重景、石童丸も御供を願って出家します。一向は滝口の案内で宿願を遂げると、船で小島へうつります。
 「祖父太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海。親父内大臣左大将重盛公、法名浄蓮。三位中将維盛、法名浄円、生年二十七歳。寿永三年三月二十八日、那智の沖にて入水す。」
 大きな松の木を削って自ら書き付けました。さらに沖へ漕ぎ出しますが、「ああ、どうしたことだ!なお妄執が尽きせぬとは!」維盛はまだ妻子への思いが断ち切れないのでした。しかし、聖の説法によりたちまち妄念を翻し、西に向かって手を合わせ念仏百篇、「南無」と唱える声とともに入水を遂げました。遅れじと供の二人も飛び込みました。
 聖を乗せた船は暮れゆく空の色と霞に隠され、櫓のあとだけが白く、長く残っていたことでしょう…。

 

​お問い合わせ・ご意見
  • Facebook
  • Twitter
  • YouTube
  • Pinterest
  • Tumblr Social Icon
  • Instagram
©2019 花のかんばせ 無断転載禁止

Success! Message received.

bottom of page