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安福寺

ここ安福寺の御本尊は阿弥陀如来様の坐像であり、重衡とは縁の深い御仏であります。
 

重衡は東大寺・興福寺焼き討ちの罪によって、その身柄を南都の大衆に引き渡されます。
大衆は重衡に対して極刑を求めました。


「そもそも、この重衡はこの世にあるまじき大罪を犯した身にて、仏敵・法敵の逆臣なれば、東大寺・興福寺を引き回した上で、首まで土に埋めて、のこぎりにてそっ首斬るべし」


しかし、熱くなった大衆を1人の老僧がとどめます。
「それは僧門の法に照らせば穏便ではない。武士にその首斬らすべし」

こうして重衡の身柄は武士へと引き渡され、いよいよと木津川のほとりで斬られることとなりました。
このとき、重衡の最期を見ようと集った人々は総勢数千万人。
多くの人々で河原は埋め尽くされました。

そんななか、重衡の旧家臣である木工右馬允知時という者が人ごみを掻き分け掻き分けやってきました。
そして、重衡の前に跪き、「この知時、とのの最期を見奉らんと罷り越しました」と申します。
重衡は、「そなたの志、誠に神妙なり。私はあまりにも罪深く覚える身であれば、せめて最期に仏を拝み奉って斬られたく思うがいかに」と。

知時、「お安いことです」と、近くの里寺から一体阿弥陀仏を借り受けて、木津川の河原に据えました。
さらに知時は狩衣の紐を解き、五色の糸になぞらえたこの紐を仏の御手に掛け、一方を重衡に握らせます。

重衡は阿弥陀仏に向かい、以下のように申されました。
「伝え聞くところ、かの調達は八万余の経典を焼き滅ぼし、その罪誠に深しといえども、遂には成仏したという。翻って、私が犯した逆罪は全く我が本位にあらず。この世に生を受けたる者、誰か王命を無視し、父の命に背くことができようか。かれを思いこれを考えると、私の逃れる術はいずこにも無し。されば、その報いを受けて、運命まさに今を限りとす。後悔千万、悲しんでも余りあり。一念、弥陀仏。願わくば逆縁をもって順縁と無し、この最期の念仏でもって、九品蓮台に生を遂げるべし」

この阿弥陀仏こそ、重衡を浄土へ導いた御仏様なのです。


坊守さまのお話によると、この阿弥陀仏はおよそ1000年前の坐像であるということです。
そして毎年重衡の祥月命日には、御住職様が重衡供養の法要を営まれているとのこと。


しかし、それは特に公に公表しているものでも、行事として行っているものでもないため、一般の方の参座は今のところ考えられてはいないようです。

境内にある十三重塔の下には、重衡の首から下が埋まっていると伝えられています。

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