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平家納経の謎

平家納経にはいくつかの謎が潜んでいます。
簡単ではありますが、そのいくつかについて述べていきたいと思います。


「一品供養経であるはずが・・・」

平家納経は発願者である清盛を筆頭に、一族郎党の32人が一品一巻を分担しているということは、清盛自筆の願文によって明らかであります。

しかし、「法師功徳品第十九」と「阿弥陀経」の2巻には、奥書に結縁者である清盛の名が記されています。
平家納経の復元に携わった小松茂美氏は筆跡研究の結果、「願文」、「法師功徳品第十九」、「阿弥陀経」いずれも清盛の真筆であると判定されています。

ではなぜ、清盛は一人一品の原則を破ってしまったのでしょうか。
これは、結縁を募ってグループを結成したものの、病で病死したり、にわかの心変わりで出家してしまってグループを外れるものなどがいた場合に、代理の者が急遽加わって完成に導く、ということが行われたのではないかと考えられています。
こうしたケースは九条兼実の日記、「玉葉」にも記されております。
平家納経においても、清盛自らが禁を破って急ぎ完成させたのかもしれません。


「厳王品を記したのは誰?」


「厳王品」の奥書には「右兵衛尉平重康」との名前が記されていますが、この重康という人がどのような人物であったかは明らかではありません。

平氏系図(尊卑文脈)にもその名は記されていないのです。

しかし、その名は平信範の日記「兵範記」をはじめ、仁安三年の臨時除目の発令記録の中に重康が豊前守に任じられた旨の記録、さらに「後白河院御時下北面歴名」には、重康が御所の警備にあたっていたことが記録に残されています。

問題はこの重康をめぐる謎です。

先に述べたように、「法師功徳品」と「阿弥陀経」が清盛の手によるものということは分かっていますが、平重康の名の見える「厳王品」の字が、清盛の筆跡とそっくりであるということなのです。
しかし、これについては、他の書状などを含めた詳細な筆跡鑑定の結果、「厳王品」も清盛の自筆であることが断定されました。

ではなぜ、清盛は地位身分の低い重康の代筆を行ったのでしょうか?
もしくは、重康自身が能書家であり、清盛の代筆を行ったのでしょうか?

これは、当時の風習であった「身隠れ」が影響しているのではないかと言われています。

 

たとえば、歌合においては作者の名を隠してその優劣を判定する。
公卿の物詣では牛車を女車に仕立て身を隠す。
身分の高い方の作文(詩を作る会)では女房名を使用したり、他人の名を借りて己が名となす、などです。

厳王品はその他の清盛の筆による経巻よりも早い長寛二年六月二日に完成しています。となれば、平家納経結縁の第一号であったかもしれません。清盛はそれに自分の名を記すのではなく、あえて郎党重康の名を借用したのではないか。そのように考えられているようです。

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