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「わけてこし野辺の露ともきえずして思はぬ里の月をみるかな」
-平経正(たいらのつねまさ)-



経盛の長男。母未詳。皇后宮の亮。一門の中でも忠度とならぶ歌人で、琵琶の名手でもありました。


経正は幼少の頃、仁和寺の御室の御所に稚児として仕えていました。十七歳の時には宇佐の勅使を引き受けましたが、このとき、中国渡来の名器「青山」を賜っています。宇佐にて神殿に向かって秘曲を弾いたところ、付き従っていた宮人すべてが涙で袖をぬらしたと言います。また、琵琶のことを少しも知らないような下人までも感動したと言うほどですから、相当な腕前をお持ちだったのでしょう。


また、寿永二年、義仲追討の折、戦乱の中で心から雑念を払い、戦勝祈願にと、琵琶湖の竹生島へ渡ったさいの有名な話も伝わっています。。
「そもそも大弁天功徳天は、昔からの釈迦如来、法身の菩薩である。弁才天・妙音天は別の名を持っているけれど、本体は同じもので衆生をお救いになる。一度でもここに参詣したものは、願いがすべてかなうものとお聞きしている。頼もしいことでございます」
と、神殿に向かい、経文をしばらく唱えるうちに、日も暮れ月が湖面を照らすばかりとなりました。社殿もますます輝き、神々しいばかりです。
この僧達が「ぜひに」と経正に琵琶を差し出しますので、経正もこれに応じました。
上弦・石上の秘曲を奏した折には社殿全体に澄んだ音が響き渡り、明神は感に堪えかねたか、経正の袖の上に白龍となって姿をお見せになりました。
経正はもったいなく思い、嬉しさのあまり感涙を浮かべつつ、思いを和歌に表しました。

「千はやふる神にいのりのかなへばやしるくも色のあらはれにける」
 神に祈った願いがかなうしるしか。はっきりとそのしるしがあらわれたことだ・・・

さて、経正は都落ちの際にも、幼少可愛がってもらった法親王の恩を忘れず、別れを告げるため仁和寺へ駆けつけます。門前で馬を降り、経正は申し上げました。
「一門の命運も尽きて、今日はもう都を出て行きます。この世に残る未練と言えば、ただ君の名残のみでございます。私は八歳の時に始めて君のもとに参りまして、十三歳で元服するまで、病気の時以外には、少しの間も御前を立ち去ることがありませんでした。・・・しかし、今日以後は西海千里の浪の上に赴き、またいつの日、いつの時帰れようとも思われるのが残念でございます。もう一度、法親王さまにお目にかかりとうございますが、今はもう甲冑を身につけ、失礼な装いになっておりますので、ご遠慮申し上げます」
それを聞いた御室は、いたく憐れに思い、「ただ、その姿でまいれ」と経正を呼び入れました。経正は正殿の庭で畏まると、御室はすぐに御簾の際まで出てこられて、御簾を高くあげ、「これへこれへ」と招きます。
経正は謹んで大床まで上がると、共につれていた藤兵衛有教をそばに呼びました。有教は赤地の錦の袋に入れた琵琶を差し出します。経正はこれを受け取り、御前に差し置きました。
「先年お預かりいたしました青山を持って参っております。手放すのはあまりにも名残惜しく思いますが、これほどの名器を田舎の塵としてしまうことは残念でございます。もし運命が開けて、また都に立ち返ることがございましたら、そのときにはまた、お預かりいたしましょう」
経正が涙ながらに申し上げるのを御室も大変に気の毒に思い、一首の歌を作り、与えました。
 
「あかずしてわかるる君が名残をばのちのかたみにつつみてぞおく」
飽かぬ別れをするあなたの形見として、これを大切に包んでおきましょう・・・

「それでは、私にも硯をお貸しください・・・」経正も筆をとりました。

「くれ竹のかけひの水はかはれどもなほすみあかぬみやの中かな」
 この御所の中の呉竹の懸樋の水の流れるように、世は移り変わったけれども、やはりこの宮の中の住み飽きることない私の気持ちは変わりません・・・

こうして別れを告げた経正でしたが、多くの稚児、出世者、坊間、侍僧にいたるまで、経正を慕って袂にすがり、袖を引き止めて名残を惜しみ、涙を流さぬものはありませんでした。なかでも経正が幼少の頃、小師であった行慶という人は、あまりに名残を惜しんで桂川の近くまで送り、いつまでも別れずにいることもできませんでしたが、とうとう、思いを和歌に詠んで表しました。

「あはれなり老木若木もやまざくらおくれさきだち花はのこらじ」
老い木も若木も山桜はあわれである。それらは早い遅いの差はあっても、花は皆散ってゆくだろう。憐れなことだ・・・

経正も返事を送ります。

「旅ごろも夜な夜な袖をかたしきて思へばわれはとほくゆきなん」
毎夜、旅装のままの一人寝を繰り返しながら、私は遠くまで旅して行くであろう・・・

そうして経正は、巻いて持たせておいた赤旗をさっと差し上げました。すると、そこここに控えてお待ちしていた侍達が「それ」と言って駆け集まり、百騎ばかりで馬に鞭当て、西を指していきました。

経正は和歌の道にも優れていました。「住吉社歌合」「広田社歌合」「別雷社歌合」に出詠したり、俊成を判者に迎え、歌合せを主催するなど歌林苑会衆の一人でもありました。歌集には「経正朝臣集」があります。

千載和歌集にも読み人知らずとして経正の歌が見えています。

 「山深み火串の松はつきぬれど鹿に思ひを猶かくるかな」
 山奥まで入ったので火串の松明も尽きてしまったけれど、鹿への思いをまだかけ続けている事だ・・・

 「いかなればうは葉をわたる秋風にした折れすらむ野辺のかるかや」
 一体どういうわけで上葉を吹き渡る秋風に下折れしたりするのだろう。野辺の刈萱は・・・

 正は一の谷の合戦で、源氏方と力闘するも、力尽きて河越小太郎重房の手勢に討ち取られてしまいます。青山が再び経正の手によって、命が吹き込まれることがなかったのは非常に残念です。本当に惜しい一生でした。この経正の子で、6歳になる子(男女未詳)が壇ノ浦の合戦で生け捕りになったと、ある本には記載されていました。その子の運命はどうなってしまったのか知る由もありませんが(おそらくは斬られてしまったのでしょうが)、もし無事に成人していれば、祖父経盛、父経正の血を受けて詩歌管弦に秀でた佳人になっていたことでしょう。


 

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